想像してほしい。日本車というものが存在しない世界を。その世界では、ルノーがアメリカで人気の輸入車で、スポーツカーはヨーロッパだけからやって来ていた。

 2000GTが生まれたのはそんな時代だった。世界はこの車で日本車の存在を知った。2000GTが発売されていたのはほんのわずかな期間に過ぎず、その名前はすぐに忘れられていった。それから長い年月が過ぎたのち、この車は再び人々の記憶に蘇り、その価値は大きく見直されることになる。自動車の歴史上でも有数のスポーツカーとして。そして、日本から来た最も偉大な自動車として。

Toyota 2000GT MF10

 2000GTが発売される1967年以前。アメリカでは日本車など取るに足らない存在だった。トヨタは1957年にアメリカの市場へ参入し、その翌年、日産は「ダットサン」として自動車の販売を開始していた。スバルとホンダの参入はそれぞれ1968年、1969年まで待たなければならない。当時、アメリカの道路で日本車を見ることは稀で、もし見たとしても、それは日本メーカー各社が小さなアメリカ支部を構える、南カリフォルニアに限っての光景だった。

 当時の日本車は良く言えば、奇妙で風変わりな『フォルスワーゲン・ビートル』であり、悪く言えば、不格好なデザインで、全く安全でない、ぞっとするような乗り心地の車だった。

 2000GTはそうした声を一変させた。1965年の東京モーターショーで初公開され、デザインスケッチはアルブレヒト・ゲルツ(BMW・507のデザイナーで、のちにダットサン・240Zもデザインする)が担当し、最終的なデザインは、トヨタのデザイナー・野崎喩が仕上げた(注1)。世界に衝撃を与える――それがこの車の開発理念だった。

注1:ゲルツはのちに雑誌のインタビューで、2000GTのデザインには関わっていないと明言した。しかし、いまだにこの噂を信じる者は少なくない。

 のちのアキュラ・NSXがそうであったように、2000GTは世界のスポーツカーの造形やエンジニアリングを参考にしつつも、それを洗練させ、全く新しい車を作ることに成功した。日本の開発技術が世界にも劣らないことを示したのだ。

 トヨタは、2000GTで何をすべきかを理解していた。当時としては非常に高額な7000ドルで発売したにもかかわらず、1台売るごとに赤字だった。ブランドの認知度と評価を高めるための広告、それが2000GTの役目だった。そしてその目論見は見事に的中する。

 2000GTの発売に先立ち、アメリカのジャーナリストらに試乗車が手配された。試乗した自動車雑誌『ロード&トラック』の編集部はこう語っている。「道路を走っている時でも、運転席にただ座っているだけの時でも、賞賛するしかない。今まで乗ってきた車の中でも最高にエキサイティングで、魅力的な1台だ」

 2000GTの心臓部には、ヤマハ製・直列6気筒ツインカム150馬力の高回転エンジンが装着される。約1100kgの車体を動かすには十分なパワーであり、0-60mph(97km/h)加速は10秒だ(当時としては優秀な記録である)。だが、2000GTの性能を物語ったのは直線スピードではない。

 レーシングドライバーのキャロル・シェルビーは、『シェルビー・コブラ』の製造が中止された後すぐに、この未知数の車に着目した。1968年、シェルビーの指揮のもと3台の2000GTがSCCA(スポーツ・カー・クラブ・オブ・アメリカ)全米選手権に参戦。入賞を果たすなど、トヨタにとって重要な成功を収めている。

1967 Toyota Shelby 2000GT

 優れた性能に加え、そのデザインも特筆に値するものだった。映画『007は二度死ぬ』では、ジェームズ・ボンドの愛車であるアストンマーチン・DB5に代わり、ボンドカーとして登場している。トヨタはこの映画のために、屋根を取り払ったオープンカー仕様の2000GTを2台、特別に提供している(ボンド役のショーン・コネリーが座るには、2000GTが窮屈すぎたために改造したのだと言われている)。この映画の公開と共に、トヨタの名は一躍世界中へ知れ渡る。日本以外では誰もその存在を知らない自動車メーカーは、スーパーカーとともに世界へと羽ばたいていった。

 ロングノーズ・ファストバック形状を持つ2000GTは、発売当初からジャガー・Eタイプと比較された。イギリスを代表するブランド・ジャガーの模造品でしかないという声もあった。だが、ジャガーに似たDNAを持ちながらも2000GTはより近代的な、当時最先端のデザインを取り入れていた。

 リトラクタブルのヘッドライト、コークボトルのようにくびれた車体のラインはコルベット・C3と同様であり、ファストバックと丸いテールランプの組み合わせはフェラーリ・365GTB/4 デイトナも採用している。そして、2000GTの発売はこの2つの車より1年早い。

 残念ながら2000GTの価格はコルベットよりもフェラーリの領域に近いものであり、販売面では苦しんだ。製造中止となる1970年までに371台が生産され、アメリカの販売店に並んだのはその内わずか60台だ。新型や後継車もなく、この車は人々の記憶から消えていった。

 2000GTが製造中止となった前年、ダットサンは240Z(フェアレディZ)を発売する。イギリスのスポーツカーを彷彿とさせる造形の美しさ、滑らかに回るツインカムエンジン、安価な価格設定、そして軽快な操縦性が人気を集め、240Zはアメリカで商業的に成功した初の日本製スポーツカーとなった。2000GTに加え240Zの成功によって、日本車の価値は大きく見直されていった。

Datsun | 240Z | NM 2056 | Central District | Hong Kong | China

 自動車のコレクションブームが初めて到来した1980年代、かつてのスーパーカーの価値が上昇するなかでも、2000GTの価値はさほど高くなかった。だがその後、状況は変わっていく。2000GTの美しいデザイン、乗り心地の素晴らしさ、そしてこの車が持つ歴史的な重要性に、世界中のコレクターが気づいたのだ。

 2006年、保管状態は悪いものの運転可能な2000GTが、約10万ドル(1211万円)で落札された。1960年代のスーパーカーの落札額としては、物足りない金額である。しかし2013年には、完璧にレストアされた個体が120万ドル(1億4533万)で落札された。オークションにかけられた日本車としては、過去最高の落札額である。

 そして現在、2000GTは正に自動車界の伝説的な存在である。そのデザインはトヨタ・86に影響を与え(アメリカではサイオン・FR-S、スバル・BRZとして発売されている)、現存する個体が事故で破壊された際には、国際的なニュースとなった。

 発売から50年もの間、2000GTは日本のスーパーカーの目標であり続けた。この車を超える、それがアキュラ・NSX、レクサス・LFAに課せられた使命だった。日本車が世界でも競争できると証明した初めての車。それこそが2000GTの名を歴史に刻んだ理由である。

 かつて、トヨタは名もない自動車メーカーの一つに過ぎなかった――そんな世界を想像するのは難しいかもしれない。だが、過去には確かに存在した。世界中で、特にアメリカにおいて、日本の自動車技術がひどく疑われていた時代が。2000GTは、日本車がいかに優れているかを世界に示した。それから半世紀が過ぎた今でも、世界はその出来事を記憶に留めている。

2000GT + Cosmo


Source: How the Toyota 2000GT Put Japanese Cars on the Map