1

 85歳という年齢を考えれば、孫とのんびり過ごしたり、旅行にでも出かけるのが相応かもしれない。だが、スズキの会長兼CEO・鈴木修氏(注:インタビュー当時)の気力は衰え知らずだ。1978年の社長就任以来、37年間もスズキの代表を務めてきた。これは自動車メーカーのトップとして最長記録である。

 スズキのインド子会社であり同国最大の自動車メーカー「マルチ・スズキ」。その前身である「マルチ・ウドヨグ」設立に至るまで、どのようないきさつがあったのか。鈴木氏は緑茶を嗜みながら(氏の健康の秘訣だという)、我々「Hindustan Times」に語ってくれた。インタビューは2時間以上にも及び、氏がこれほど詳細に当時を述懐するのは初めてのことだ。

運命


 スズキとインドとの出会いはマルチ・ウドヨグ設立の12年前までに遡る。これはほとんど知られていない事実のようだ。1969年開催のアジアハイウェイラリーに、スズキのレースチームは、360ccの2気筒エンジンを搭載した「フロンテ」で参加。チームはラリーの開始地点であるインド・ニューデリーのアショカホテルに滞在していた。

 鈴木氏はその当時を振り返る。「私自身はチームに同行していなかったが、チームはホテルに滞在中、とある紳士的な男性から『自分の上役がスズキに大変興味を持っている。ぜひその自宅へ招待したい』と誘われたそうだ」

 チームが招待された先は、当時のインド首相「インディラ・ガンディー」の公邸だった。首相の子息である「ラジーヴ・ガンディー」「サンジャイ・ガンディー」の両氏に出迎えられ、チームの面々は手厚くもてなされた。

 当時、サンジャイはイギリスから帰国したばかりで、「インドで国民車を生産する」という政府の新計画を担当していた。ラジーヴも国内の自動車産業振興に強い関心を示していたという。

 両氏はフロンテを自ら操縦し、ニューデリーの市街地を走らせた。そして、大いに感銘を受け、政府はスズキに技術提携を申し入れる意志があり、ただちにそれを日本の本社へ伝えてほしいと、チームに要請している。

「残念ながら、当時の状況ではインド政府の希望に応えることはできなかった。1970年から1975年にかけて、我が社は経営危機的状況にあった。だが、インドと我々の縁は、この時に生まれたものだと思っている」

 1978年、鈴木氏はスズキの社長に就任した。同氏の陣頭指揮の下、新しい小型車の開発が進められた。のちにスズキの基幹車種となるアルトだ。「アルトは発売と同時に大評判となり、売れに売れた。この車の成功が、新しい市場へ進出しようと模索していた我々の後押しとなった。ちょうどその頃は、日本の経済が停滞し始めた時期でもあったからだ」

 スズキとインドの物語はここから本格的に始まる。

「本社のエンジニアがパキスタン工場へ出向する途中、飛行機の中で偶然インドの新聞を読んだそうだ。そこには、インド政府が国民車構想のために自動車メーカーの提携相手を募っているという内容が書かれていた。その新聞を持ち帰ってきたエンジニアに対し、日本のインド大使館にかけあって、まだ募集は受け付けているかを確認するよう、私は指示した。だが、募集期限は既に過ぎているとの返答だった」

「私はそのエンジニアを叱責した。『断られたときに初めて交渉が始まるのだ』と。三度大使館を訪ね、ようやく我々の申し出を受け入れてもらえた」

 提携パートナーは当初、フォルクスワーゲンかダイハツに決まるかと思われたが、最終的にはスズキが有力視された。鈴木氏はインド市場に大きな可能性を感じ、この機会を逃したくないと願っていたそうだ。「当時、スズキは日本で13番目の規模の自動車メーカーに過ぎなかった。我々の技術力が海外でも通用すると示すための好機だと、私は考えた。そして、必ずこの計画を成功させると誓った」


マルチ・ウドヨグの始動


 提携パートナーはスズキに決定し、1981年、インド政府との合弁会社「マルチ・ウドヨグ」が設立された。だが、新会社会長のクリシュナムルティ、役員のバルガバを始め、車作りは素人同然だった。鈴木氏は初歩的なことから説明したという。

「二人に初めて会ったのは東京の帝国ホテルだった。3時間ほど話し合い、彼らからは多くの質問を受けた。工場を立ち上げるには何が必要か、用地はどれほどの規模になるのか。私はホワイトボードを使って説明したあと、実際に我々の工場を見学するように勧めた」

 部品の供給拠点もなければ、物作りの歴史と技術もない。そのような国で自動車という高度な工業製品を生産するには、並大抵ではない気力とリスクを恐れない意志が必要だ。そして、鈴木氏はその両方を兼ね備えた人物として著名である。だが、同氏といえども不安はなかったのだろうか。

「私はクリシュナムルティに、この計画を自分に一任させてほしいと頼んだ。それが成功のための必要条件であり、もし任せてもらえるならば、全力を挙げて取り組むつもりであると。クリシュナムルティ、それにバルガバは私を信頼し、全てを委ねてくれた」

「車の製造技術のみならず、工場の設立とその管理運用法に至るまで、あらゆることを教えた。初めてインドを訪問した際には、サンジャイ・ガンディーが指揮をとる工場建設現場の視察も行っている。自分の目であらゆる箇所を検査し、床のコンクリートに至るまで指示を出した」

 スズキの経営手法は、なによりも徹底的なコスト削減で知られる。その象徴が、鈴木氏の代名詞「大量生産による生産コストの削減」、すなわち規模の経済性だ。その手法はマルチ・ウドヨグにも取り入れられ、同社の高い利益率を支える源となった。


コストの伝道師


2
マルチ・ウドヨグの第一号車「800」はアルトをベースに開発された。一般市民でも手の届く安価な価格によって、絶大な人気を獲得した。

 マルチ・スズキが国民車としての地位を確立したのは、価格設定をまず第一に考えたからだ。それを実現するための低コスト化への努力は、並々ならぬものがあったという。

「『売れる』小型車を作るためには、要求する品質とコストを最小限とし、価格を出来る限り抑えなければならない。コストを削れなければ利益は出ない。ある程度の品質を保証しつつ、コストだけを削減する。これは本当に難しいことだ」

 スズキの二輪車事業での経験は自動車製造にも役立ったのだろうか。

「二輪車の製造、部品業者との提携関係は、自動車開発の際にも大いに貢献した」と、鈴木氏は頷く。

 インドは鈴木氏にとって第二の故郷である。ニューデリーのモーリヤ・シェラトンホテルの一室を住居として買い取り、お気に入りのレストランであるブハラでは、自ら厨房に立ち、料理を振る舞ったこともある。インドの人々、食事、風土。何が氏を惹きつけているのだろうか。

「全てだ。そうでなければ、これまでに200回以上もインドを訪れたりはしない」

「私は今年で85歳となる。戦前の日本を知っている世代だ。当時は、大阪と名古屋を結ぶ国道さえ舗装されていなかった。誰もが貧しく、苦難を乗り越えるためにどれほどの努力が必要だったのか、私は直接見てきた。インドにも貧しい人々はいる。私はその人たちの気持ちが理解できる」

「販売台数でスズキがマルチ・スズキに抜かれる日が来たら、本社をインドに移そうかと考えている。家族はみな反対するだろうが」

 最後の発言は氏の冗談だろう。会社の代表としての地位は息子である社長兼COO・鈴木俊宏氏に譲ったが、社内での影響力は今なお計り知れない。スズキを一代で世界的企業にまで押し上げた鈴木修氏の情熱は、いまだ止む気配もない。


Source & All photos by
How Japan’s Suzuki became India’s Maruti | autos$top | Hindustan Times


たくやゎインドの自動車事情が好きで、マルチ・スズキも応援しています。

修氏の絶対的なカリスマ性と比べると、俊宏氏は会社を引っ張っていく器量に欠けると評されることもあります。
先代が偉大だと、相対的に低く見られてしまうのは仕方がないことなんでしょうか。
美味しんぼの天ぷら屋でも似たような話があった(唐突)

修氏があのような形で引退したのは、本当に悲しいなぁ(DRMGS)